こんばんわ。
先日、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」の再放送がありました。
第161回 樂家十五代 樂吉左衛門(2013年1月3日放送)
http://www.nhk.or.jp/professional/2013/0103/index.html
樂吉左衛門さんの作品を初めてじっくり見たのは平成16年9月に茨城県陶芸美術館で開催された「樂家歴代と十四代覚入・十五代吉左衛門 樂茶碗 手のひらの小宇宙」と題した展示会でした。
この当時の自分は既に益子に居て、それでもまだ青山二郎に没頭していましたし、同時に加藤唐九郎にも没頭していて桃山陶の素晴らしさに心底惚れ込んでいた時でした。
なので、長次郎の無一物とかには何とも言えぬ心持ちになった記憶がありますが、それ以外はもうよく憶えてないですね。
(濃密な益子時代を過ごしたせいか、もう記憶もずいぶんとあいまいです…^^;)
ただ「家柄がすごいってどういうことだろう?何か自分たちには想像も出来ない決定的な何かがあるのかな…」なんて漠然とした思いと疑問が、見る前と見た後ではそれほど変わらず私の心の中に残り続けたのは忘れてないですね。
まぁ、素晴らしい作品を目の前にしながら、私自身が未熟過ぎましたし、知識も乏しくとにかく勉強が足りてなかったですね。
そして益子でもずいぶんと時間が経ってきて、陶芸と言う手仕事の大変さ、すごさを全身で感じてくると、この時のパンフレットに書いてある吉左衛門さんの言葉が妙によく解かりかけてきて「自分も頑張らねば」と思いましたね。
そんな思いを抱いたまま、先日ツイッターで再放送の情報が流れてきて、実際にこの目で吉左衛門さんの作業風景が見れるとかなり楽しみにしてました。
見た感想はと言うと…。
2年断り続けてようやく取材を許可した樂家。期間は9ヶ月間。
半年掛けて一つ一つの茶碗を大事に作っていき、集大成と言うべき大掛かりな本番の焼きをし…そしてそれが焼きが甘かったりして(全部が全部って事じゃないだろうけど)…重過ぎるほどの伝統がある樂家としては何とも無かった事にしたいような気持ちでしょう。
「プロフェッショナルなんていません」って苦笑いしながら言う(言うしかない)吉左衛門さんが何とも…^^;
吉左衛門さんの発する言葉は流暢に胸の内にある想いを詩人のように表現するのですが、作品の目指すところは「岩のようなどっしりとした存在感のある茶碗」と詩人のような表現をしていた人とは思えないぐらい意外とシンプル…。
それでいて制作途中で迷われたりして…芯のある哲学がありそうで、実はふわふわ雲のような感じなのかな~なんて…。
雲というより山頂の神社に向かう霧がかった杉林の中を歩くが如くって感じでしょうか。
私が思うに、利休や長次郎などの原点とも言うべきところからの歴史を深く見つめ直すことが重要だと思いましたし、やはりそれは知ってるか知ってないかで作品に対する想いや精神力の込め方が大きく変わるだろうな、と。
隠居窯の生徒さんにも出来るなら歴史から学ぶこともお勧めしたいですね。
で、後日…。
番組を見た生徒さんが「ちゃわんや」という本を持ってきてくれました。
それを見るとやっぱり詩人なんだなって思いました。
お父さんとは4年しか一緒に茶碗作りをしてなかったのですね…。
それにしても茶碗の名前を誰が名付けしたのか分かりませんが、凄そうな小難しい言葉や単語を選び抜いて付けてる感じ…。
普通、名前付けは使う人が付けるものだと思うので、やっぱり名付け親はこの茶碗の所有者なのかな~。
きっと茶人が所有し、お茶会で普通に使われているのでしょうね。
実際に触ってお茶を飲んでみたいな。
今回、この程度で深く知った気になってる訳ではありませんが、私の中で吉左衛門さんの人物像が大きく変わりました。
利休さんと長次郎さんが作った茶碗とは真逆を行ってるわけなので、これが(今の)彼の世界観なのでしょう。
とにかく十分過ぎるほどの環境がありながらスタートが遅かったのが悔やまれますが、今こんな事を言っててもしょうがないですね。
息子さんも後を継ぐ気でいるのでしょうし、今後いろんな意味で注目したいですね。
樂美術館も行ってみたいですが、京都はちょっと遠いな~w